2026年9月5日

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ヨメさんが脚を悪くしてからはおとなしく暮らしていたのだが、さすがに煮詰まってきたのでどっか行こうということで能登に行くことにした。まともなら芸術祭の年だし、それなりに土地勘もあるし、地震から3年近くたつとさすがに道も繋がってるし、車で行くしかないから逆に自由も効くしね。ただ、作品を見に行くわけではないので能登に長時間いても仕方なかろうということで、富山(砺波)に1泊、能登に2泊で予定を組んだ。ヨメさんベッドでないと自力で立ち上がれないのだが、奥能登でそれなりの宿の洋室の部屋で3泊する予約が取れなかったという事情もあるのだが、、、で、当初は普通に北陸道を北上するつもりだったのだが、思いついて東海北陸道を北上することに。では、初日分を順番に、

ひるがの分水嶺公園。名前の通りの分水嶺で、左奥から流れてきた水がここで左右に分かれ、右への流れは富山湾に、左前への流れは伊勢湾に注ぐ。ここの良いところは国道のすぐそばにあって、駐車場から数mでこの光景になってしまうところ。なかなか高齢者に優しい分水嶺。ここから庄川の流れに沿って砺波に向かう。

御母衣ダム(湖)。渇水で水がほぼ干上がり取水制限が行われているが、先週の水害である程度水位が回復した。といってもこの程度で2割の取水制限は継続中。雨が少なかったのもあるけど、そもそもダム湖にかかる橋の架け替え工事で水を抜いているため普段より余力が少ないらしい。湖底の橋が見えていたりして珍しい光景だが、下の集落にあった桜の木を移植したのが
庄川桜。こちらのインパクトが強すぎて、ダム湖は霞んでますな。この後ダムの記念館に向かったのだが、水曜定休で休み(急遽予定を組み替えたので、こういうボロが出てくるよな)。
駐車場からダムの写真だけ撮った。
帰雲城跡。天正地震による山体崩壊で城下町もろとも埋没した内ヶ島氏の居城だが、被害が大きく生存者も少なく、実際に城や城下町がどこにあったのかは特定されていない。いちおう写真後方の山体崩壊跡が原因との説が有力だが、実は反対側の山にも崩れた後が散見される。しかし、せっかく秀吉と和睦が成立し領地もほぼ安堵されたというのに、その祝宴で支城にいた兵も本拠に集ったタイミングで地震が来て一族郎党全滅。秀吉もたいがいひどいが、この国では自然災害の方が怖いちゅうことやな。
村上家住宅。合掌造り集落は脚が悪いと(高低差があって)難しいので、国道のそばの旧家を目指したのだが、これも水曜休館でした。仕方ないなあ。で、そろそろお昼にしようと1軒だけ営業している(村上家がお休みだから客が来る想定になってないんだろうな)土産物屋兼食堂に入ると、オッサンが一人で新聞を読んでいる。客が来たので慌てて仕事に戻るも、山菜ごはんセットを頼んだら(冷蔵庫からお櫃を取り出しいったん奥に引っ込んだうえで)ご飯が切れてるとの悲しいお知らせ。しゃあないそばにするかということになりオッサンがそばを湯がき始めたところで、なぜか3人組と7人組のお客さんがやってきて客席がいっぱいになる。幸い我々のそばはすぐに出てきたが(もたもたしてると伸びちゃうからね)、ホールも厨房もオッサン一人なので、あのお客さんたちどうなったかなあ(たぶんおばちゃんに招集をかけたのではないかと推測)。

料理が出るまで五箇山のパンフを見ていると、川向うに加賀藩の流刑小屋が残っているというので行ってみた。 残っているとはいっても三八豪雪で一度倒壊し復元されたもので、江戸時代の部材は一部しか使われていないらしい。

中にはちゃんと流人がいた。
さて、砺波に宿をとることになりまず行こうと思っていたのが庄川峡遊覧船。小牧ダムのダム湖を巡る船で、もともとは筏で木材を運べなくなることからその運搬のため就航したのだが、木材輸送は早々にトラックに切り替わったため、以後ずっと観光(と温泉宿の送迎)目的である。こちらも渇水で休航していたのだが、先週の豪雨で復活した。被害にあわれた方には申し訳ないが、いろいろ助かっている。お試しだしショートコースにしたのだが、お客さんは中華系の団体客が多数を占め、船内放送もほぼ中国語(たまに日本語)。といっても、民謡の解説とかわからなくても大丈夫で、やっぱり船は楽しい。

チェックインまで少し時間があるので、結構な山道を登って(といっても車でですが)散居村展望広場へ。教科書にも出てくる風景ですが、上から見ると納得するよね。

この日はメルキュール富山砺波泊。宿自体はいろいろ満足で、気持ち悪くなるまで食べた。アホである。これもふと思いついてユニバーサルルームにしたのだが、車いす用の客室ってのは避難しやすい、させやすい配置になるので、眺望が売りのホテルでも眺望は良くないのだな。勉強になります。

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